この本は、青少年読書感想文全国コンクールの課題図書でもあります。
以下、当書より抜粋
『アフガニスタンのほとんどは貧しい人たちです。人が死んでいくことを受け入れていますが、決して命を粗末にしているのではありません。
それはきっと、「自分の意思で 生きているのではなく、生かされているという感謝の気持ち」があるからなのではないかと、哲先生は感じました。』
『哲先生はこのように、自分の考えを押し付けたり、一方的に何かをあたえるのではなく、現地の人の気持ちに寄り添い、相手を尊重しました。』
『水が善人・悪人を区別しないように、誰とでも協力 し、世界がどうなろうと、他所に逃れようもない人々が 人間らしく生きられるよう、ここで力を尽くします。
内外で暗い争いが頻発する今だからこそ、この灯りを絶やしてはならないと思います。』
『見慣れないもの、ただ違いがあることを、進んでいる・遅れている・優れている・劣っていると、自分の物差しではかってはいけない。』
『地球温暖化は回復不能に近い水準まで進みつつあります。近代化や現代的な生活には染まることのない、最もCO2排出が少ないアフガニスタンの人々の上に、最も大きな影響が出ました。』
『身近にあってできる事は、案外たくさんある
たとえば友だちがいじめられているのをかばってやる
家族が病気になったときかわりにご飯を作る
そういう、小さな一つ一つが、何でもないようなことが人間の真心
それをじっと守ることが大事なんだ』
ここからは、僕の気づき。
ないなら買えばいい。
壊れたら買えばいい。
なくしたら買えばいい。
そんな考えに馴染んでしまっていた。
先進国の大量消費社会による影響は、アフガニスタンなどの発展途上国に及んでいることなんて考えもしなかった……
中村哲さんの用水路を作った話は、安城市に流れる「明治用水」にも通じるところがある。
【明治用水の歴史】
明治用水開発以前の安城市付近は「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地。わずかに流れる小河川沿いに小規模な水田が開発されていましたが、水に恵まれない地での農業は苦しいもの。
そのため、池が開発されていたが、耕地の半分以上がこれらのため池に依存しいた。水が足りず、農民同士で争いが起こることもしばしばあった。
この草野に用水開削が計画されたのは江戸時代末期のこと。都築弥厚は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から水を引き、30キロメートルにも及ぶ水路による用水の開削を計画した。数学者、石川喜平の協力を得て測量を始めたが、水害や入会地の減少を心配する農民たちに妨害され、作業がなかなか進まなかった。
やがて、5年もの歳月をかけ測量図が完成し、幕府から一部の開発許可が下りたものの、長年の激務がたたったのか、弥厚は病没。
弥厚の死後、明治時代に岡本兵松によって弥厚の計画は蘇ったが、明治維新の影響もあり、出願された用水計画は一向に日の目を見なかった。明治5年に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎の計画と一本化することでようやく許可を得ることができた。そして明治13年、ついに「明治用水」が完成。
自分にとって、当たり前にある水、食べ物、家、生活、家族、仲間……
すぐに今あるモノや環境に慣れ、当たり前になってしまっている自分がいた。
今の生活は誰かの努力の上にあるもの。
当たり前を有り難いと思えるように、日々、感謝の気持ちを忘れずに生きていきたい。
形だけではなく、先人たちの知恵や想いも受け取っていきたい。
小さくても一つ一つ、自分にできることから。
まずは知ることから始めていきます。
"なしお"という名前は、このブログを作る時に命名しました。命名の由来は、「スキルなし、経験なし、人脈なし、学歴なし、コミ力なし」ということで"なしお"です。当時の僕には、何もないと思ってたので、"なしお"という名前を自分に命名しました。
そして、"ない"を、"ある"に変えていく・気づいていくための、"なしお"の奮闘をこのブログに記していきます。その中で、他の誰かに、お役に立つ情報が少しでもあれば幸いです。