中村天風が伝えた実践法のひとつに、「安定打坐(あんじょうだざ)」があります。
特徴的なのは、雑念を無理に消そうとするのではなく、音を入口にして、思考の奥にある静けさへ戻っていくというところです。
この記事では、安定打坐の考え方と実践方法、そして瞑想で感じた静けさを日常に活かすことについて、僕なりにまとめてみます。
瞑想をしていると、仕事のこと、過去のこと、これからのことなど、いろいろな考えが浮かんできます。
静かに座っているはずなのに、頭の中だけは忙しい。そして「何も考えないようにしよう」と思えば思うほど、かえって雑念が増えてしまうこともあります。
僕自身、瞑想をしていて何度も経験してきました。
そんな雑念との付き合い方を考えるうえで、とても興味深いのが中村天風の「安定打坐」です。
中村天風の「安定打坐」とは?
安定打坐は、心だけを無理に静めようとするのではなく、身体を整え、音などを利用しながら心を落ち着かせていく瞑想法です。
瞑想というと、呼吸に意識を向けたり、浮かんでくる思考を観察したりする方法を思い浮かべる人も多いと思います。
安定打坐で特に面白いのは、「音」を意識の入口として使うことです。
音そのものに耳を澄ませることで、頭の中で絶えず続いている言葉や考えから、少しずつ距離をとっていきます。
雑念を消すのではなく、音へ意識を戻す
瞑想をすると、つい「雑念をなくしたい」「無心にならなければ」と思ってしまいます。
でも、雑念を消そうとすること自体が、また新しい思考になってしまうことがあります。
雑念と戦うのではなく、雑念とは別のところへ静かに意識を向ける。
音を聴く。呼吸を感じる。足裏や身体の感覚に意識を向ける。
何かひとつの感覚を丁寧に感じていると、それまで頭の中を占めていた考えとの間に、少し距離が生まれてきます。
雑念そのものが完全になくなったわけではありません。ただ、雑念に巻き込まれていた状態から、一度離れることができたのです。
大切なのは「音が消えた後の静けさ」
安定打坐では、音を聞くことそのものだけではなく、音が消えた後にも意識を向けます。
音にじっと耳を澄ませていると、やがてその音が小さくなり、消えていきます。
そして音がなくなった直後、ほんの一瞬、それまでとは違う静けさを感じることがあります。
音はもうない。でも、次の考えもまだ始まっていない。
そこにあるのは、何かを考えているというより、「ただ気づいている」ような静かな感覚です。
静けさとは、一生懸命つくるものではなく、余計なものが静まったときに気づくものなのかもしれません。
僕は、安定打坐の面白さはここにあるように感じています。
ぼんやりすることと「静けさ」は違う
瞑想中に何も考えていないように感じても、ただ眠くなっている場合もあります。
安定打坐で味わう静けさは、単にぼんやりした状態とは少し違います。
- 意識はある程度はっきりしている
- 周囲の音や身体の感覚にも気づいている
- 頭の中は必要以上に騒がしくない
- 何かに強く反応しているわけでもない
静かだけれど、ぼんやりしているわけではない。澄んでいるけれど、緊張していない。
そんな心の状態を表す言葉として、「明鏡止水」を思い浮かべます。
曇りのない鏡と、波の立っていない水。何も感じなくなるのではなく、物事は感じながらも、心が必要以上に波立っていない状態です。
身体を整える「クンバハカ」
安定打坐では、心を静めることだけではなく、身体の状態を整えることも大切にされています。
そこで使われるのが、中村天風が「神経反射の調節法」として伝えた「クンバハカ」です。
心が不安や怒り、緊張などで揺れたとき、心を直接どうにかしようとするのではなく、まず身体の状態を整える。
そのための基本となるのが、次の3つです。
① 肛門を締める
肛門を軽く引き締めるように意識します。身体の下側を安定させるイメージです。
② 肩の力を抜く
肩をストンと落とすようにして、肩や首、上半身に入っている余計な力を抜きます。
③ 下腹部に力を充実させる
おへその下あたりを意識し、下腹部に身体の中心があるような感覚をつくります。
ポイントは、この3つをバラバラに行うのではなく、「肛門を締める・肩の力を抜く・下腹部を充実させる」ことを同時に行うことです。
ただし、全身をガチガチに固めるわけではありません。
上半身の余計な力は抜きながら、身体の中心は安定している。
僕はこの感覚が、太極拳ともよく似ているように感じます。
太極拳でも、肩の力を抜き、足裏や重心を感じながら、身体の中心を安定させていきます。
身体が整ってくると、無理に「心を静かにしよう」としなくても、自然と心まで落ち着いてくることがあります。
上はゆるめて、下は安定させる。
心を直接コントロールしようとするのではなく、まず身体を整える。クンバハカには、そんな発想があるように感じます。
安定打坐では、このように身体を整えたうえで音に意識を向け、静けさへ入っていきます。
安定打坐のやり方をシンプルに整理
安定打坐を実際に行うときの流れを、シンプルに整理すると次のようになります。
① 身体を整える
楽に座り、肩や顔まわりの余計な力を抜きます。身体の中心が安定するように姿勢を整えます。
② 音に耳を澄ませる
音が鳴っている間は、考えたり分析したりせず、できるだけ音そのものに意識を向けます。
③ 音が消えるところまで聴く
音が小さくなり、聞こえなくなる瞬間まで丁寧に耳を澄ませます。
④ 音の後の静けさを感じる
「静かになった」と頭の中で言葉にするのではなく、音がなくなった後に残る感覚をそのまま味わいます。
途中で考え事が浮かんでも問題ありません。
「雑念が出てしまった」と責めるのではなく、気づいたらまた音へ戻る。そして音が消えたら、また静けさへ戻る。
その繰り返しです。
実際に安定打坐をやってみたい方へ
安定打坐は、文章で理解するだけでなく、実際に座って体験してみると、「音が消えた後の静けさ」がより分かりやすいと思います。
僕自身、瞑想は頭だけで理解するものではなく、身体や感覚を通して味わうことが大切だと感じています。
安定打坐を実践するときに使える動画がこちらです。
姿勢を整えたら、音が鳴っている間はその音に耳を澄ませます。
そして音が消えたら、何かを考えようとせず、その後に残る静けさを感じてみます。
音に集中する → 音が消える → 静けさを感じる
「無になろう」と頑張る必要はありません。
雑念に気づいたら音へ戻る。音が消えたら静けさへ戻る。
まずは、その繰り返しをゆっくり味わってみるのがいいと思います。
雑念は敵ではない
安定打坐について考えていて、僕が大切だと思うのは、雑念を敵にしなくてもいいということです。
僕たちは、不安や怒り、考えすぎ、ネガティブな感情などを「なくしたい」と思うことがあります。
でも、「なくさなければ」と思えば思うほど、そのことばかりが気になってしまうこともあります。
だから、無理に追い払うのではなく、音や呼吸、身体など、今ここにある感覚へ意識を戻してみる。
すると、考えそのものは存在していても、それに巻き込まれない時間が少しずつ生まれてきます。
瞑想とは、雑念をゼロにする練習ではなく、雑念に飲み込まれた自分から何度でも戻ってくる練習なのかもしれません。
瞑想で感じた静けさを日常へ
僕は、瞑想で感じる静けさは、座っている時間だけのものではないと思っています。
誰かの一言にイラッとしたとき。仕事で焦っているとき。頭の中で考えがぐるぐるしているとき。
そんなとき、ほんの一瞬だけ止まり、呼吸や周囲の音、足裏などを感じてみる。
それだけでも、反応と行動の間に「小さな余白」が生まれることがあります。
怒らない人になる必要も、何も感じない人になる必要もありません。
ただ、反射的に動く前に、ほんの少し静けさへ戻る。
その小さな余白が、次に出てくる言葉や行動を変えていくのかもしれません。
静けさは「つくるもの」ではなく「戻るもの」
僕は最近、太極拳や瞑想、森林浴などを通して、「静けさ」というものに惹かれています。
森の中を歩いているとき。太極拳でゆっくり身体を動かしているとき。静かに座っているとき。
何か新しいものを手に入れるというより、余計なものが少しずつ落ちていくような感覚があります。
そして、その奥にあるのが静けさ。
もしかすると、静けさとは頑張って作り出すものではなく、音や呼吸、身体、自然などを入口にして、何度でも戻っていく場所なのかもしれません。
安定打坐もまた、そんな「静けさへ戻るためのひとつの道」として受け取ることができるのだと思います。
雑念を無理に消そうとしなくていい。
音を聴き、身体を感じ、静けさへ戻る。
瞑想しているときだけではなく、日常の中でも何度でも戻っていく。
そんな時間を少しずつ増やしていけたら、忙しい毎日の中にも、静かで澄んだ瞬間が増えていくのかもしれません。
※本記事は、中村天風の安定打坐という実践法をテーマに、一般的に知られている考え方を参考にしながら、筆者自身の瞑想・太極拳の体験や解釈を交えて独自に構成したものです。


"なしお"という名前は、このブログを作る時に命名しました。命名の由来は、「スキルなし、経験なし、人脈なし、学歴なし、コミ力なし」ということで"なしお"です。当時の僕には、何もないと思ってたので、"なしお"という名前を自分に命名しました。
そして、"ない"を、"ある"に変えていく・気づいていくための、"なしお"の奮闘をこのブログに記していきます。その中で、他の誰かに、お役に立つ情報が少しでもあれば幸いです。