この記事では、千葉雅也さんの『現代思想入門』と、YouTubeチャンネル「シンプリィライフ」の動画「【人生変わる】『悟り』を開くための科学的瞑想法。仏教と脳科学の共通点【空海vs龍樹】」をきっかけに、“私たちは世界をそのまま見ているのか”というテーマについて考えてみます。
現代思想、仏教、脳科学はそれぞれ別の分野ですが、どれも「自分が見ている世界」や「私という物語」を見つめ直すヒントを与えてくれるように感じました。
- 先日、YouTubeチャンネル「シンプリィライフ」の「【人生変わる】『悟り』を開くための科学的瞑想法。仏教と脳科学の共通点【空海vs龍樹】」という動画を見ました。
こちらの動画です。
この動画では、脳科学の「予測処理」や「自由エネルギー原理」という考え方と、ブッダ、竜樹、空海といった仏教思想をつなげながら、
- 悟りとは何か
- 善とは何か
- 私たちは世界をどう見ているのか
という、とても深いテーマが語られていました。
見ていて僕が感じたのは、この内容は、以前読んだ千葉雅也さんの『現代思想入門』とも重なる部分があるのではないか、ということです。
もちろん、仏教と現代思想と脳科学は、それぞれ別の分野です。
同じものとして雑にまとめてしまうのは違うと思います。
でも、深いところでは、同じような問いを扱っているようにも感じました。
僕たちは、世界そのものを見ているのではなく、
“世界の見方”を通して世界を見ているのではないか。
脳は、世界をそのまま見ているわけではない
動画の中では、脳は世界をカメラのようにそのまま映しているのではなく、過去の経験をもとに「こうであるはずだ」と予測しながら世界を見ている、という話が出てきました。
つまり僕たちは、目の前の現実をそのまま受け取っているようで、実際には、かなり多くの部分を自分の脳の予測や思い込みを通して見ている。
- あの人は自分を嫌っているかもしれない
- 自分はうまくいかない人間だ
- 普通はこうするべきだ
- 成功とはこういうものだ
- 自分には何もない
こうした考えも、もしかすると“現実そのもの”というより、これまでの経験や記憶から生まれた予測なのかもしれません。
僕たちは、現実を見ているようで、実は自分の中にある物語を通して、世界を見ている。
この視点は、『現代思想入門』にも通じるものがあるように思いました。
現代思想は、“当たり前”をほどく思考
『現代思想入門』では、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカンなどの思想が紹介されています。
正直、現代思想は難しいです。
言葉も抽象的だし、すぐに分かった気になれるものではありません。
でも、僕なりに受け取った大きなテーマは、僕たちが当たり前だと思っている世界の見方を、一度疑ってみるということでした。
- 善と悪
- 正常と異常
- 本物と偽物
- 成功と失敗
- 自分と他人
- 意味があることと、意味がないこと
こうした区別は、もちろん日常を生きるうえで必要なものです。
でも、それを絶対的なものとして握りしめすぎると、僕たちは苦しくなる。
「こうあるべき」
「これが正しい」
「こうでない自分はダメだ」
そんなふうに、言葉や概念が自分を縛ってしまうことがある。
現代思想は、そうした固定された見方をほどいていくための思考なのだと思います。
龍樹の「空」と、現代思想の「脱構築」
動画の中で印象的だったのが、龍樹の「空」の話です。
「空」とは、何もないという意味ではなく、物事には固定された実体がない、という見方です。
僕たちは、「自分」「成功」「失敗」「価値」「正しさ」などに、まるで確かな実体があるように感じています。
でも、それらは本当に絶対的なものなのでしょうか。
たとえば、昔の自分は「自分には何もない」と思っていました。
- スキルなし
- 経験なし
- 人脈なし
- 学歴なし
- コミュ力なし
だからこのブログでは、自分に“なしお”という名前をつけました。
でも今になって思うのは、本当に何もなかったのではなく、自分の中にあるものに、まだ気づけていなかっただけなのかもしれない、ということです。
「ない」と思っていたものも、見方が変われば「ある」に変わる。
ここに、空の考え方と、現代思想の脱構築が重なるように感じます。
竜樹は、仏教の側から「固定された実体」をほどく。
デリダは、言語や概念の側から「固定された意味」をほどく。
もちろん、両者をまったく同じものとは言えません。
背景も目的も違います。
でも、どちらも僕たちに教えてくれるのは、自分が絶対だと思っていた見方は、本当に絶対なのか?という問いなのだと思います。
悟りとは、“私という物語”から降りること
動画では、悟りとは思考を完全に消して頭を空っぽにすることではなく、「予測する主体」から降りることだと説明されていました。
この表現が、僕にはとても響きました。
日常の中で、僕たちはいつも頭の中で物語を作っています。
- 自分はどう見られているだろう
- このままで大丈夫だろうか
- あの人より自分は劣っているんじゃないか
- もっと頑張らないと価値がないんじゃないか
こうした“私についての物語”が、頭の中でずっと流れている。
でも瞑想をしていると、ふと気づく瞬間があります。
「あ、いま比べているな」
「あ、いま焦っているな」
「あ、いま自分を責めているな」
その思考を否定するのではなく、ただ気づく。
つかまえず、押しのけず、眺める。
すると少しだけ、「思考している自分」と「思考そのもの」の間にすき間が生まれる。
僕は、このすき間こそが、“私という物語”から降りる入口なのかもしれないと思いました。
空海は、世界をもう一度肯定する
もう一つ印象的だったのが、空海の話です。
龍樹の「空」は、固定された見方を手放していく方向の思想だとすると、空海はその先で、世界をもう一度まるごと肯定していく思想のように感じました。
すべては空である。
でも、だからといって世界は虚しいだけではない。
- 目に見えるもの
- 聞こえる音
- 身体の感覚
- 自然の気配
- 人との出会い
- 日々の出来事
そのすべてを、宇宙や仏のメッセージとして読み直していく。
これは、僕が大切にしたい感覚にも近いです。
世界は、ただの出来事の集まりではない。
見方が変われば、そこに意味が立ち上がる。
過去の苦しみも、失敗した経験も、自分には何もないと思っていた時間も、読み直し方によって、自分の物語の大切な一部になっていく。
「空」は、意味をなくすことではなく、固定された意味から自由になること。
そして空海的に言えば、自由になったあとで、もう一度この世界をありがたいものとして受け取り直すこと。
そんなふうにも感じました。
現代思想は頭でほどき、瞑想は体験でほどく
ここまで考えてみると、『現代思想入門』とこの動画の内容は、かなり深いところでつながっているように思います。
- 現代思想は、頭で“世界の見方”をほどく。
- 仏教や瞑想は、体験として“世界の見方”をほどく。
- 脳科学は、その仕組みを別の角度から説明しようとしている。
もちろん、それぞれの分野には違いがあります。
現代思想は仏教ではないし、仏教は脳科学でもありません。
でも、どれも共通しているのは、僕たちが「これが現実だ」と思っているものを、少し距離を置いて見つめ直すことです。
- 自分が見ている世界は、本当に世界そのものなのか。
- 自分が信じている自分は、本当に固定された自分なのか。
- 自分を苦しめている物語は、本当に絶対の物語なのか。
そう問い直すこと。
それは、単なる知識ではなく、生き方を少し自由にしてくれる視点なのだと思います。
解釈が変われば、世界が変わる
僕は最近、「解釈が変われば、世界が変わる」ということをよく考えています。
同じ出来事でも、どう意味づけるかによって、その出来事の持つ力は変わります。
- 「自分には何もない」と思っていた過去も、「だからこそ探求が始まった」と読み直すことができる。
- 「失敗した経験」も、「自分の本音に気づくきっかけだった」と見直すことができる。
- 「遠回りした時間」も、「今の自分に必要な土台だった」と受け取り直すことができる。
現代思想も、仏教も、瞑想も、脳科学も、それぞれ違う言葉で、同じ方向を指しているのかもしれません。
自分が見ている世界は、唯一絶対の世界ではない。
だから、世界の見方は変えられる。
そして、世界の見方が変われば、自分の物語も変わっていく。
悟りとは、どこか遠くに行くことではなく、今ここで、自分が握りしめていた物語に気づくこと。
そして、その物語から少し降りてみること。
そのとき、世界はなくなるのではなく、むしろもう一度、新しい意味を帯びて立ち上がってくるのかもしれません。
僕にとって、『現代思想入門』とこの動画は、そんなことを考えさせてくれるきっかけになりました。
世界は、思っているよりも固定されていない。
自分も、思っているよりも固定されていない。
だからこそ、僕たちは何度でも、自分の物語を読み直し、今ここから新しく生き直すことができるのだと思います。


"なしお"という名前は、このブログを作る時に命名しました。命名の由来は、「スキルなし、経験なし、人脈なし、学歴なし、コミ力なし」ということで"なしお"です。当時の僕には、何もないと思ってたので、"なしお"という名前を自分に命名しました。
そして、"ない"を、"ある"に変えていく・気づいていくための、"なしお"の奮闘をこのブログに記していきます。その中で、他の誰かに、お役に立つ情報が少しでもあれば幸いです。